阿波徳島関係刀工アルバム

徳島氏吉(新刀・新々刀)
備中水田三郎兵衛国重の弟子新十郎が來国した。その子が延宝(1673〜)頃の与五右衛門国重で、元禄(1688〜)頃に与五郎国重があり、この与五郎国重には椿(現那賀郡椿町)打ちがある。現在の阿波郡市場町大月の地名は大月国重に由来すると伝える。また、「勢見山麓に於いて」との刀銘があり、現在の徳島市金毘羅神社付近に住したとも伝う。その作風は備中打ちと異なり、姿は反りが深くなり、地刃の「はたらき」もおとなしくなっている。享保の頃まで代々続いたと記される。          
 阿波海部住。海部一門で氏房の子とも、初代氏吉の子とも伝う。 阿波の古刀(室町時代までの太刀・刀)中現存刀が最も多い。最古の年紀は永正14年(1517年室町時代末)が現存する。
 海部泰吉の作風は氏吉の「相州伝」を受け継いで「ニエ出来」の「一枚帽子」の、いわゆる『郷義弘』作に化けるような出来を示し、年代的にも氏吉に代わって海部鍛冶の頭領的存在となっている。
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寛文頃、海部系の刀工で徳島城府(現徳島市福島)で作刀した。後に兄弟3人が上京し、「堀川系」の刀鍛冶に入門したと推測される。作風は初期には「海部伝」の顕著な作を見、その後「堀川系」を示すような幅広の姿に鍛えは「板目・杢目」まじって「ざんぐり」とし、刃は「ニエ出来」の「のたれ乱れ」に「砂流し」のかかるものを見る。山城守受領のころから地肌は「山城伝」の「小杢目鍛え」で比較的よくととのって美しい地鉄で肌が沈む。刃は「直刃」や「互の目」を主とし「ニエ」「匂」深く冴えた出来が多い。
海部氏吉(古刀期)
 海部太郎。海部刀の代表刀工と伝えられる。笹無谷(現海部郡海南町相川)に住んだ。室町時代から代々あり、名跡は江戸時代「徳島氏吉」に及ぶ。
 明応・永正頃(室町後期)の氏吉の作風は「板目肌」に「コニエ」よくつく「のたれ刃」で、一見、『郷義弘』に化けるという「相州伝」のものが多い。代表作に『三好長慶』の指料で名物「岩切海部」があり、海部一派の物切れとしての声価を高めている。
 応仁の乱・両細川の乱には、阿波細川は一方の主力として、常に大軍を機内に送り、刀の需要が急増したことが、氏吉を頂点とした海部一門が繁栄した原因であると考えられている。
3代彦兵衛尉。初銘祐家。2代源兵衛尉祐定3男。2代彦兵衛尉養子。阿波三好郡池田、白地城主大西頼武・覚養父子に招かれ、数ヵ年とどまり刀を鍛える。備前国住長船彦兵衛尉祐定の阿波池田打ちと称し、珍重する。天正、永禄頃。なお、彦兵衛はその後慶長3年(1598年)に大西城番となった中村右近に招かれ、数ヵ年滞在し、刀を鍛える。以後その子孫が代々「祐定」を名乗り「阿波祐定」として幕末まで続いている。
 徳島初代氏吉(海部実兵衛)は万治3年に阿波城主蜂須賀光隆公に召されて徳島に移り刀鍛冶となる。3人扶持を与えられる。追って6人扶持に御加増になる。年頭には御紋附きで御目通りを許された。海部庖刀樺巻きのものを一ヵ年に15腰を蜂須賀家にさし上げるのを例とした。徳島氏吉の系統は幕末まで10代を数える。作風は「海部伝」に「大阪新刀」風を加味したもので、「本造」をはじめ「片切刃造」がある。鍛えは「板目・杢目」よくつみ「直刃仕立て」の「小乱」か「互の目乱」を焼き「コニエ出来」で「帽子」は直ぐに「小丸」に焼く良作が多い。      
山城守歳長(新刀期)
海部泰吉(古刀期)
水田国重(新刀期)
長船彦兵衛尉祐定
末古刀期 池田打ち