波涛に燕図 小柄

阿波徳島関係金工アルバム

無銘

阿波正阿弥

鉄地金布目象嵌金布目覆輪

鷺に団扇図 鐔

海老図 目貫

波涛図 縁頭

阿波正阿弥・平田氏直

(阿波・徳島藩お抱え工)

鉄線唐草図 鐔

(阿波・徳島藩お抱え工)

野村正道(4代)
「阿波後藤」野村四代目、宝暦七年(1757年)に没したと記される。八十歳の行年銘の小柄が現存する。正道は京後藤の七郎兵衛家で修行し、阿波徳島藩の江戸詰めのお抱え工になったと伝えられる。正道の作風は後藤家(家彫り)の技法に基礎を置き、伊勢海老や秋草花束の図や技法を創出し、後に「阿波彫り」と称された彫金法を打ち立てたと考えられる。門人に名工、津尋甫を出しているが、後継者に恵まれず、実質的に津尋甫の弟子である正次を養子となし家督を継がしたと推測される。その後、野村家は幕末まで、「正光」、「正英」、「正芳」と続き、傍系の「正秀」や門人を阿波と江戸に擁し、野村の「阿波彫り」として名をなした。
野村正時(初代)
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阿波平田家2代目、『装剣奇賞』に正阿弥市左衛門、京師正阿弥某の弟子なり。阿州象眼工この人を祖と為す、とある。また、『阿淡年表秘録』慶長15年(1610年)に紺屋灰を司どる徳島藩の役職として『正阿弥市左衛門』の名が記されており、今平田と改められている。初代平田は『阿波志』に「平田與八郎 尾張人侍福聚公(蜂須賀小六正勝) 後来為金工 万治中(〜1660年)賜俸五口 免丁役 今称市左衛門 居紙屋街とある。阿波平田初2代は安土桃山時代から江戸時代初期における徳島城下初期豪商として知られる。代々、阿波徳島藩のお抱え工として、幕末まで8代を数える。その作風は良質の金をふんだんに使用し、布目象眼工法の「阿波象眼鍔」として古くから有名であった。特にその内、上手で絢爛・豪華なものは「阿波献上鍔」と賞賛され、明治期に外国に多くが流出したと記されている。 

(阿波・徳島藩お抱え工)

阿波正阿弥

無銘

鉄地金布目象嵌金覆輪

徳島城表御殿図 鐔

(阿波献上鐔・江戸時代)

阿波正阿弥

無銘

赤銅地金布目象嵌

桐・鉄線唐草図 鐔

(古正阿弥・桃山時代)

阿波正阿弥

無銘

真鍮地金布目象嵌

菊・秋草図 鐔

真鍮地金布目象嵌

無銘

阿波正阿弥

(古正阿弥・桃山時代)

野村正秀 花押

濱野保随入道七十翁造出印刻

伊勢海老図 小柄

濱野保随 矩随弟子 円十郎 初め直随弟子 と「江都金工名譜」に記される。江戸で修行を終えた後に西国を巡遊し阿波徳島城下に定住し、刀装小道具や金銀細工品などの需要に応えていたようである。徳島市寺町東光寺の過去帳から、天保七年十二月没が確認されている。薄肉彫りの人物図を得意とし、鍔や小柄が現存する。保忠や保定などの弟子を養成した。                  

(野村正次弟子)

(阿波平田家7代)

阿州 平田長房花押

(阿波・徳島藩お抱え工)

菊花束図 小柄

野村正秀 花押

浜野保随

野村正英 花押

水仙図 小柄

「阿波後藤」と称される野村家初代正時。『装剣奇賞』に 庄左衛門 野村氏 後藤昌乗弟子 とある。後藤昌乗は京後藤甚兵衛家の初代であり、昌乗の子である乗本は延宝3年江戸で若くして没し、後藤甚兵衛家は廃絶したとされている。後藤甚兵衛家は実質的に野村家に引き継がれたようである。野村家では代々京後藤家で修行し、後藤式(家彫り)を遵守した。阿波徳島藩の江戸詰めのお抱え金工となり、幕末の9代正芳まで15人扶持を給された。
野村正矢(3代)
「阿波後藤」野村家3代目。阿波徳島藩お抱え工。『装剣奇賞』に「俗称未詳江戸の人なれども、阿州より召されて彼藩に下りゆく。彫工御用を任とむと」ある。後藤式(家彫り)の作風で、六十五歳行年銘の赤銅、倶利伽羅竜図目貫が現存する。『鏨工譜略』に「正矢 庄右エ門 友喜 諸品金品ヨキヲ用上手 享保七年死」とある。
野村正吉
「阿波後藤」と称される野村家三代正矢の弟。正矢正吉、正行の三兄弟で野村家隆盛の基礎を築いたと考えられる。この頃から僅かながら在銘作品が見られる。いずれも純後藤式(家彫り)のものである。